マーラーの交響曲5つ魅力

マーラーに出会ったのは偶然だった。
今から25年ほど前、小澤征爾という日本を代表する指揮者(と私がいまさら書く必要性はないのだが)の指揮で、スタバトマーテルという曲の合唱団として参加することになった。リハーサルに及んだその夜、彼の音楽性の魅力にとりつかれた。そして、帰りに駅前のレコード店に寄り、小澤征爾指揮のレコードを探した。そして買ったのが、マーラーの「交響曲第一番」だった。日本語訳のサブタイトルが「巨人」だ。何となく、幻想的なイメージを抱いた。そして音楽も、本当に幻想的だった。
それから第二番を買い、やがて社会人になってすぐ、再び小澤征爾氏の指揮で、マーラー「交響曲第八番・一千人の交響曲」を歌い、ますますマーラーの虜になった。その後、四番、六番、七番、三番、九番、十番、大地の歌と続いた。オーケストラや指揮者の組み合わせも各種様々。やはりマーラーといえば、交響曲である。
マーラーの交響曲の魅力はどこにあるのだろう? 学問的な分析はできないので、あくまでも印象批評となるのだが、次の5点がその特徴だと思う。

壮大なスケール
第一に壮大なスケールだ。昔ヨーロッパ各地を回る仕事をしてきた。欧州にはどこにも牧歌的な田園風景がある。その風景をマーラーの音楽が感じさせる。しかも雄大な風景だ。そして、どちらかというと、東欧の風景が似合っている。彼がボヘミヤ地方の生まれであるせいなのかは定かでないが。

民族色の匂い
第二に、その牧歌的な雰囲気に結びつくのだが、メロディのどこかに、民族的匂いが漂っている。古典派、ロマン派といわれている作曲家たちとはすこし違う匂い。第二楽章、三楽章あたりで登場するメロディがそれだ。マーラーの交響曲を聞くのは体力勝負だ。気軽に聞けるような長さではない(短くて40分、一番長いのは1時間半)し、嵐のような激しい管弦楽の絡みと勝負するには、並大抵の精神力では太刀打ちできない。どの交響曲も第一楽章はそうだ。すると、第二楽章や第三楽章の軽快なリズムにのった牧歌的で民族的な音楽に出会うとほっとするのだ。憎い演出ではないか。

映像的
第三は映像的な点。音楽が映像的であるだけでなく、映像と見事に合うのだ。マーラーの曲が映画に使われている例は多いらしい。代表的なところでは、海外映画では「ヴェニスに死す」。日本映画では、伊丹十三監督作品「タンポポ」に効果的に使われている。確かに、マーラーの交響曲と映像は見事にマッチすると思う。

大編成
第四に、楽器編成が大げさで大編成な点。これは長所といっていいかどうか苦しいところだが、長所短所の両面を持っているだろう。弦楽の数はモーツァルトの頃の二倍は必要だし、管楽器も必ずフル編成。時には、トランペット10本、ホルン8本なんてこともある。ステージ上だけではない、観客席3階にブラスアンサンブルとか、舞台袖のトランペットだとか、「一千人の交響曲」に至っては、合唱団が混声合唱2、少年合唱団1と合計三つの合唱団が必要だ。交響曲第九番には、弦楽合奏団が2つ。プロモーターはたまったもものではない。金がかかりすぎる。聞く方は豪華なのは大歓迎だけれど、、。

美しくも妖しいメロディ
そしてなんといっても、そのメロディの美しさには、だれもが心奪われるに違いない。この美しさは、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどとはひと味違う美しさなのだ。どこか官能をくすぐられるというか、妖しげで、なんともいえない。

さてマーラーのCDは多数出ている。それだけ需要が多いのだろうが、その中でどれを選べばよいか迷う。好みもあるので、どれが良いと特定できないが、これからマーラーを聴く人の道しるべとして、このweb版「クラシック音楽夜話」でも次々と紹介していく。Op.2ではまずバーンスタインの演奏を紹介する予定である。

【今日聞いている一枚】
グスタフ・マーラー Gustav Mahler(1860-1911)
交響曲第7番 ホ短調《夜の歌》 演奏時間約75分
Symphonie Nr.7 E-moll
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 Orchester:Berliner Philarmoniker
指揮:クラウディオ・アバド Dirigent:Claudio Abbado
録音:2001年5月 ベルリン(ライヴ・レコーディング)

CD・レコードと生演奏のはざまで

「コンサートに行きたい」と思っても、クラシック音楽の場合日本では毎日演奏会が行われているわけでもないから、無理な話だ。たまたま良さそうなアーチストが、運よく住んでいる土地に訪れることがあれば良いが、そんなチャンスはそうない。
アマチュアの演奏会ならけっこう頻繁に行われているが、こちらは音楽を楽しむというより、演奏している知人の晴れ姿を見て、両者で感動を共有する、友情(親族であれば愛情か?)という側面もある。中にはプロ顔負けの素晴らしい演奏をする団体もある。そんな演奏会が聞けるあなたは、幸せ者ですよ!
それでも!それでも、CDで聞く音楽より、やはりライブで、会場で音楽を聞く方が数倍素晴らしいのだ。私はこの頃強くそう感じている。
指揮者フルトヴェングラー氏も自著「音と言葉」の中で、「メカニカルな音」の音楽の問題を語り嘆いている。時は1930年代。「メカニカルな音」という意味がわからなく、戸惑ったがこれはつまりレコードとラジオのことだ。レコードとラジオで音楽を聞くのがごく普通の現代人には、ぴんとこないかもしれない。しかし、これは本質をついている。
クラシック音楽とは本来生演奏できくべきものだった。当たり前の話だが、ベートーヴェンの時代には生演奏以外に音楽を聞ける手だてはなかったはず。だから演奏会場で、演奏者と聴衆が同じ音と空間を共有した。
一方録音という技術は人間に途方もない恩恵を与えただろう。演奏者がそこにいなくても音楽を聞けるのだから画期的だ。しかし、この技術は、生で音楽を聞く機会を減らしていった。
レコードの存在を否定するのは現代ではナンセンスだ。技術の進歩で確かに音は格段に良くなっている。コンサート会場で聞くのと同じ臨場感や音質を感じさせる質はすでに手に入れている。だからどちらで聞いてもいい。
ただ、私たちは両者の違いを知るべきだ。コンサートつまり生演奏による音と、録音された音とは全く違うものなのだと。どう違うのか説明することは難しいが、それは演奏者と聴衆が共有する空間と空気の中における音の響のせいだろう。演奏者の息づかい、聴衆の息づかい(演奏中にはもちろん聞こえないけれど)。
先日実に10年ぶりにプロによる生演奏を聞いた。あの時聞いた音は、CDやアナログレコード、MP3による音とは全く違った。あまりにも当たり前の話で、読者の皆様は笑うかもしれないが、本当に感動した。
フルトヴェングラー氏の発言の受け売りかもしれない。しかし、私の独断的発 言を許して頂くとすれば、生音は、メカニカルな音の数倍、時には数十倍の付加価値がある。だってクラシック作曲家達は本来メカニックに録音されたものではなく、あくまで、生による演奏を想定して音楽を書いたに違いないから。