「皇帝」というニックネームで親しまれているこの作品の魅力。第一楽章、華麗なピアノのカデンツァで始まり、その後、ほとんど管弦楽曲かと勘違いしそ うな英雄的な音楽。ホルンのハーモニー、テンパニーの主張。オーケストラの後、「まってました!」ではなく「ここいらで、そろそろよろしいでしょうか」 と控えめに始まるピアノ、など。憎い演出満載の作品です。まさに栄華究める王者にふさわしい音楽として、以後二百年もの間、愛され続けてきたピアノ協奏曲です。
もっとも、初演時の評判はかんばしくなく、音楽があまりに難解ということで、 批評家だけでなく一般聴衆にも受け入れられず、ついにベートーヴェン生前に は冷遇されたままでした。ベートーヴェンの死後十年も経った1830年代後半には絶賛され始めたといいます。作品は1809年頃に完成し、聴衆の前に登場したのは1810〜1811年で、世に認められたのは初演から20年以上経過してようやくだったというわけです。
★軍隊的で男性的、けど女性的華麗な両面をもつ音楽
作曲された時期のウィーンの状況、戦争のまっただ中という悲惨な状況が深く関わっていないはずのないこの音楽に、当時のベートーヴェンの心のうちが鋭 く表現されています。
音楽全体を覆うのは、戦闘的心情。ホルンの美しいハーモニーとティンパニーのリズムが軍隊を想像させます。よく聞かなければ気が付きませんけれど、特に第一楽章にその傾向が見いだされます。管弦楽による戦闘的音楽を中和するというか、必死に否定しようとするのがピアノの独奏です。彼(ピアノ)は、勇ましく進む戦士らの、心の隙間へと執拗に入り込もうとしています。
君たちが進もうとしている道は、人々を平和へと導くための大義名分だろう?でも、なぜその大儀名分のため、多くの命を巻き添えにするのだ?といわんばかりのピアノの問いに対し、返す言葉もありません。第一楽章の一見華麗な曲想は、実はこのような二つの対立、葛藤を音楽でそのまま表現しているように思えてなりません。もっとも、こういう男性的な感覚が聞き手の共感を呼んでいるともいえるのです。
圧巻はピアノの下降する怒濤の半音階的フレーズと共に叩く右手の力強いメロディ。本当に一人で弾いているのか?と疑いたくなるほどすさまじい。ほぼ半音階のフレーズは「でたらめに弾いているんじゃない?」とさえ錯覚するほど見事なものです。(もちろんでたらめであるはずはなく、ちゃんとベートーヴェンが書いていることは言うまでもありません)
★世にも美しいアダージョ、第二楽章
ベートーヴェンの作品はアダージョが際立っています。やれ英雄だの運命だの、男性的ベートーヴェン音楽ばかりが強調されていますが、彼のもうひとつ忘れていけない本領、つまり魅力は、第二楽章や第三楽章(四楽章形式の場合)に必ず添えられるアダージョ楽章といえるでしょう。
とりわけこの「皇帝」第二楽章は、弦楽器のためらいがちな曲想に、夢心地のピアノがまたためらいがちに色を添え、たぶんベートーヴェンの作品の中でも最高に美しい楽章です。
映画「不滅の恋」の印象的シーン。「皇帝」の演奏を指揮するベートーヴェンが、耳が聞こえないため適切な指示をオケに出せず、大恥をかきます。人々の笑い声の中、聴衆のひとりエルデーディ侯爵夫人が、ベートーヴェンの手をとり、会場を出ていきます。このシーンでバックに流れていたのが、他ならぬ「皇帝」の第二楽章でした。
ベートーヴェンの家に立ち寄った夫人は、彼の部屋の乱雑さに唖然とし、彼に「私が家政婦を手配しますから…」とと提案します。でも、聞こえないベートーヴェンは、筆談用のプレートを彼女に差し出し、身振りで、ここに書いてください、と語ります。その時の優しい目の表情。これはあくまで映画。でも、私は、バックに流れる音楽と共に、まるで本当にベートーヴェンがあの優しげな目をしていたのだ、と思えてなりません。
この楽章は、難解でもなんでもなく、冒頭の弦楽器のメロディを、ピアノが受け継ぎ変奏曲風に続く、ただそれだけです。ただそれだけですが、それがすべて。ピアノ協奏曲の大きな魅力の根源がこの第二楽章に秘められているのです。
★あなたと踊りたい、第三楽章
第二楽章は静かに終わります。奇妙なのは、楽章最後の音が半音下がり、ピアノはまたためらいがちに次のフレーズを奏でようとするところ。第一楽章は、変ホ長調(E♭メジャー)、第二楽章はホ長調(Eメジャー)、そして第三楽章で再び変ホ長調(E♭メジャー)へと戻る演出です。
ピアノがフェイントともいえるリズムで第三楽章のテーマを始めます。ワルツなんだけど、ワルツではない。摩訶不思議なこのリズムを私たちはどううけとめましょう?
ちょっと専門的になりますが少し説明を。 第三楽章の基本リズムは ♪♪♪ ♪♪♪ というに分割されたワルツです。
ところが冒頭の一小節だけちょっと違い、 ♪♪ ♪♪ ♪♪(三番目は、実際は八分休符+十六分音符が二拍) というふうに、三分割されています。
おかしなリズムだな〜、と思っていたけれど、よく考えると、あれは、ワルツを踊る時の助走のような役割を音楽が果たしている、ということがわかります。
バックハウスの演奏ではこのリズムが明快にわかります。続く管弦楽も、まあ慣れたもの。
それにしても、ベートーヴェンの作品はクライマックスがこういうワルツや舞踊曲が目立ちます。有名どころでは「交響曲第三番」。きっと、この曲を最後まで聞く方はきわめて少ないでしょうから、気が付く人はそう多くないです。あの第四楽章は壮大な舞踊曲です。「ヴァイオリン協奏曲」はちょっとスピーディなワルツです。「交響曲第七番」最終楽章は踊り狂うにふさわしい舞曲です。
★ピアノとティンパニーのデュオ
極めつけは、第三楽章のクライマックス。管弦楽が静かになり、ティンパニーとピアノのみの二重奏です。よく聞かないと気が付かないけれど、第一楽章と 第三楽章でオケと共に存在感を示しているティンパニーを忘れてはいけません。どこか戦闘的音楽を印象づける理由はティンパニーが存在感を示しているからでしょう。そして、第三楽章最後のデュオですから、ますます強烈な印象が残ります。ピアノとティンパニーの二重奏が終わると、怒濤のようなピアノと管弦楽によって、ベートーヴェンにしては珍しく、あっさり目にしめくくります。
第一楽章は確かに英雄的。でも、第二楽章は夢心地のロマン。そして、第三楽章は怒濤の舞曲。「皇帝」というニックネームなんか忘れ、ピアノと管弦楽が織りなす七変化をこの音楽で楽しんでください。
【第一楽章】Allegro 約20分
【第二楽章】Adagio un poco mosso
【第三楽章】Rondo Allegro ※第二楽章〜三楽章 合わせて約20分
★私の定番音源
ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
指揮:インセルシュテット
管弦楽:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
ピアノ: エレーヌ・グリモー
管弦楽ドレスデン国立管弦楽団
指揮: ラディーミル・ユロフスキ