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ピアノを弾きたい

かつて西田敏行(と名前で書いてもピンとこないなら、映画版「釣りバカ日誌」で浜崎伝助を演ずるあの西田氏)という俳優が歌う「もしもピアノが弾けたなら」(阿久悠:作詞、坂田晃一:作曲)は結構ヒットした。恋する人に自分の思いを歌にして聞かせたいという歌詞が泣かせた(阿久悠氏はこういう演出がうまい)。自分の思いを歌う歌のピアノ伴奏ができる位なら、ピアノソロ曲を弾けばいいのにと思わぬではないが、それは二番で「小さな灯りをつけ、聞かせる」ところに出てくる。ピアノが弾けることにあこがれを抱く人はきっと多いだろう。

NHKの番組でも大人向けのピアノ講座は好評だし、いつも通る私鉄の駅ビルの音楽教室では、中高年向けのレッスンを開催している。楽器を始めるのに年齢は関係ない。始めたい時が、その人にとって最適な時。自発的に始めたことは、何であれ一生の友となる。

「ピアノを弾きたい」と近頃、真面目に思っている。
(「お前がピアノを弾こうが、弾くまいが、そんな話には興味はない!」
と思う方もおられるでしょうが、ま、笑い話としてお読みください。)

一応どの鍵盤がドレミファソかはわかる。両手十本の指で演奏のまねごとだけはできる。あ、コード進行ならなんとかなる。すべての調だと無理だが、黒鍵を多用しない調なら基本コードは弾ける。けれど、クラシック音楽としてのピアノとなるとせいぜい「エリーゼのために」のさわりくらいしか弾けない。つまり初心者、初心者の初心者なのだが。

ピアノとの出会い

習い事というものをいっさいしたことがなく、家にピアノもなかった私がなぜ少しだけ弾けるようになったか。たまたまポップス音楽の雑誌に譜面が載っていて、そこでコード進行図を見たのがきっかけだった。曲名は「レット・イット・ビー」。そう、ザ・ビートルズのあの超有名な作品である。

ちょうど当時同名の映画が上映されていて友達と見に行った。ポール・マッカートニーがグランドピアノを弾きながら歌うのを見て少年心に「カッコイイ」と思った(動機なんてこんなもの、単純なんだ)。

小学校高学年からギターを弾いてはいたがピアノには全く興味がなかった。ピアノが弾けるより、ギターを弾けるほうが数段上だと信じていた。当時流行のグループ・サウンズにでてくるキーボード奏者は目立たず、どちらかというとリードギターに目がいったせいもある。まあ縁がなかっただけの話なのだが。

ビートルズは兄が買ってきたレコードの印象が強く、「ヘルプ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」「抱きしめたい」など、エレキギターの利いたナイスな音楽で、あの強烈なサウンドが小さな時から頭に焼き付いている。それは彼らの初期の頃の作品であり、その後ビートルズの音楽は次第に様変わりしていったのだが、そのことを私は知らずに育った。映画を見て、あのギターだけだのサウンドだと思いこんでいたビートルズがピアノを使っていることの驚き。恥ずかしい話だが、この時私はピアノという楽器がクラシックだけでなく、いろんな音楽に使われるオールマイティな楽器であることを実感した。目から鱗が落ちるとはこのこと。そして俄然ピアノに興味を覚えた。

ある日私は学校にその音楽雑誌を持っていった。吹奏楽部に入っていたため、音楽室を自由に出入りできた。そこには学校のグランドピアノがあった。それまで一度も触ったことがなかったピアノの鍵盤に恐る恐る手をやった。右手三本の指でコードを弾いてみた。ピアノの初体験。鳴った(当たりだ!)。ちゃんと三つの音が同時に(これも当たり前)、Cの和音(ド-ミ-ソ)になった。次は指を同じ形のま ま低音へ移動。G(ソ-シ-レ)、おお!。そのまま白鍵一つ分右に移動Am(ラ-ド-ミ)、おおマイナーだ!そのまま今度は白鍵ふたつ分低音へ移動し、F(ファ-ラ-ド)。それらは見事な和音であり、気持ちの良い音である。なんだコードなら意外に簡単なんだ。ギターと同じ要領で弾けるじゃないか。

右手は思ったより簡単だったが左手は?何々、Cの時は低音でドを一本指で弾くのか。そしてGではソ、Amではラ、Fではファ。なんだそれぞれの和音の幹になる音だ。右手のコードは四分音符でジャーンジャーンと弾き、左手は二倍の八分音符でジャジャジャジャと弾く。こうして左手と右手をリズムにあわせて一緒に弾いてみると、ピアノから豊かで力強い音が鳴ってくる。「なんて凄い音になるんだろう、、。」と心躍らせた。

この日、ピアノという楽器と、本当の意味で出会った。

ピアノがうまい男の子

我々の年代が幼少の頃は東京オリンピック開催後でもあり日本が活気づいていた時代だ。一般家庭もそれなりに豊かになり、お稽古事としてのピアノは、女の子の間ではすでに流行っていたと思う。けれども、男の子の場合はどうだろうか。考えてみればピアノが弾ける友達などはほとんどいなかった。それでも小学校時代には同学年に二人ピアノを弾ける男子がいた。珍しかったせいもあるだろうが、彼らはよく朝会や学校行事などの歌の伴奏にかり出された。

A君は品行方正でまじめ。B君はどちらかというとませたガキの部類だった。先生のいうことをよく聞くA君は重宝がられ、出番は多かった。時々B君に出番が回ることもあったけれど、断然A君が先生に可愛がられているものと思いこんでいた。しかし、そうでもないことがわかった。そういえば学校行事の中でも来賓等のある重要な場面では必ずB君が弾き、A君は学校内行事での出番が中心だったのだ。ピアノの上手下手などわからなかった私は、素朴に疑問を感じてある日単刀直入に先生に聞いた。
「先生、今度卒業式ではB君が伴奏するけれど、本当はA君とB君のどちらがピアノがうまいの?」 先生は一瞬表情を曇らせた。触れたくない話題に触れたような気まずい空気が流れたのだ。少し間をおき先生は忌々しそうに「うまいから卒業式に弾いてもらっているんです!」といった。先生も実はB君の方を評価していたわけだ。

「ピアノがうまい」
「ピアノが上手に弾ける」

これはどういう意味だろう。おそらくは小学校レベルなら、間違えないで弾く、ことを意味すると考えていいだろう。そして私たちの意識の中に「ミスのない演奏=うまい」という情報がインプットされていく。

でも、ミスのない演奏が必ずしも「良い」演奏とは限らないことを、ある時期に私たちは気づく。ミスが多少あっても人の心を揺さぶる演奏はある。完璧なテクニックでも氷のように冷たい演奏もある。

B君とはその後高校卒業まで同じ学校に通った。中学では共に吹奏楽部に所属した。けれども彼がピアノを弾く姿を中学以後見たことはなかった。そして高校で彼は音楽系のクラブ活動をしなかった。専門として美術を選び、大学も美術系教育課程に進んだ。演奏するための音楽は彼から遠のいたようだった。A君については、小学校以後交流はないのでどうしているか知らない。

小学校の先生がB君の方が「ピアノがうまい」と考えていたのは、テクニックのことなのか、演奏そのもののことなのか、どっちだったんだろうか。今私は、うまいとか下手とか、という評価には全く興味がなくなっている。心に響く演奏とは別物だから、どうでもよい話ではあるけれど、当時の先生の考え方を知ることには興味がある。

伴奏としてのピアノ

伴奏が嫌いなピアニストがいる一方で、伴奏好きなピアニストがいる。合唱などの伴奏者を選ぶとき、技術的にすぐれている人を選びがちだが、そのピアニストの伴奏に対する考えをよく聞いた上で依頼しないと、とんでもないことになる。大事な演奏会も台無しになるから注意したい。

ピアノ曲を見事に弾くピアニストであっても、伴奏には不的確なケースが多い。それは自己本位で他の演奏者に合わせるという感覚が希薄な性格のピアニストに多い。ピアニストとは自己表現を自分とピアノとで行う。他人が介在する要素はない。だからこういう性格のピアニストは心のどこかにこういう感覚が潜んでいる。「他の演奏者存在が許せない」という。

伴奏とは、いや必ずしも伴奏でなくとも、デュオ、トリオ、その他アンサンブルならすべてあてはまるが、他の奏者と共に演奏する場合は、自己本位であっては調和できない。常に他人を意識し互いの演奏を引き立て高める役割を共同で行わなければならないから。室内楽の場合は奏者全員がソリストでもあるから個性的演奏をする必要があるのは当然だけれども、その中でもやはり協調が必要であることに変わりはない。しかしアンサンブルが好きなピアニストはなかなかいない。

一流ピアニストは誰もがアンサンブルでも優れた演奏会を行い、録音を残している。リヒテル、ブレンデル、アシュケナージ、マルゲリッッチ、数を上げればきりがない。彼らはソロ奏者としてだけでなく、アンサンブル奏者としても一流だ。だからこそ一流のピアニストといえるのだろう。

ウィーンのオスベルガー教授も、アンサンブルのピアニストとして高い評価を受けている。有名なヴァイオリニストシェリング氏は、晩年リサイタルのパートナーとして必ずオスベルガー氏を指名したという。彼は大学で「伴奏法」の指導もしているから今度伴奏について詳しく話しを聞きたいものだ。

伴奏といえば、アンネ=ゾフィー・ムターが最近パートナーを組んでいるピアニストのランバート・オーキス氏とのコンビネーションは絶妙だ。CDでも聞けるが、DVDで見ると、その様子がよくわかる。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集だが、その演奏の濃さには圧倒される。この演奏については、後にまた特集として取りあげたい。

Beethoven
The Complete Violin Sonatas
Anne-Sophie Mutter, violin
Lambert Orkis, piano
DVD 073 014-9
Deutsche Grammophon

目立たない伴奏者としてのピアニスト。とても興味深い存在だ。なぜなら彼らに演奏の善し悪しすべてがかかっていると言っても過言ではないから。

譜面「ベートーヴェン ピアノソナタ全集」を買う

めでたくピアノと出会った少年は、その後も残念ながらピアノを本格的に習う機会はないまま、もっぱらビートルズの歌を弾き語りするだけのために学校で暇を見ては練習した。両手によるコード進行だけではなく、左手で伴奏、右手でメロディという基本中の基本も覚えた。童謡はその練習に格好の素材だった。でも、譜面を見ての練習ではなく、あくまでメロディにあわせてコードを手探りしながら自己流で弾くだけだったため上達することはなかった。つまり譜面を見て演奏する訓練をしなかった、自己流である。一応コードだけによる伴奏ならなんとかできるようになったが、これではピアノ曲を弾けるわけではない。

その私が今弾きたい作品は何か?
ピアノ初心者のための「ポップス名曲集」のような楽譜は死んでも買ってこないぞ!(ポップス名曲集も弾きたいけれど、、、)

まず、前号で紹介したベートーヴェンの「六つの場が照る」じゃなくて「六つバガテル」である。絶対に弾けるようになりたい。弾いてみたい。そして、最終的な目標は当然(と強調!)ベートーヴェンのピアノ・ソナタだ(もちろん全曲ではありませんよ、テンポが遅めの比較的簡単な楽章をア・ラ・カルトで選んでね)。

藤沢の妻に電話をした。
「ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜がほしいんだけれどどの出版社のがいいんだろう?」
「原典版とか、誰それの校訂版とかあるけれど、細かい部分にこだわるのでなければどこの出版社のでもいいんじゃない?何番のソナタが欲しいの?」
   (musker、そんな質問は予想しておらず、当然という表情で…)
「もちろん全曲集さ」
   (と、強調)
   (間髪入れずに妻絶句)
「ええ〜! 何に使うの?なにするの?」
「もちろん見るんだ。ソナタの音楽的な構成も調べられるし。」
   (妻、唖然として受話器を落とす、、、。受話器の向こうからニュースステーションのオープニングテーマが聞こえる)
   (musikerの部屋にはベートーヴェンの「告別」)

読者の皆さん、特にピアノが弾ける方の反応が目に浮かぶ。失笑する人、怒る人、唖然として相手にしない人。musikerは何を考えているんだ!と

どうぞ笑ってください。でも私は本気だ。だからいいのだ。これでいいのだ。

剣豪作家の故五味康介氏は著書の中で、
「ベートーヴェンのピアノ・ソナタが弾ければ、いい小説が書けそうな気がす る」
と語っておられる。あり得る話だ。ピアノ・ソナタが弾けるとすればピアニストがもっともふさわしい資格のある候補だが、残念ながら小説家のピアニストはいない。エッセイストならいるけれどね。あの音楽の深淵を分析し、極めれば、きっと物語の構成、発想、表現の上で相当な刺激を受けるはずだ。私は信じる。作家でどなたかが実体験し、レポートしてくれないものか。

ということで、ついに「ベートーヴェン ピアノソナタ全集」譜面(全二巻)を買った。これで心ゆくまで楽譜が見られるし練習だってできる。

ただ、重大なことを忘れていた。
「だけど〜、僕にはピアノがない、、」ことに。
(※この文章はメルマガ版「クラシック音楽夜話」Op.59に加筆したものです)

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