ヴァイオリンと曲芸
ヴァイオリン音楽は正直いって苦手だった。いや、はっきりいうと嫌いだった。
その訳は、15年ほど前に、有名な音楽教育研究所へ訪れた時の思い出が深く関わっている。
あの時私はウィーンの音楽家と共にこの研究所を訪れた。ウィーンの音楽家たちが県内を演奏会とセミナーで回るという県の事業で、空き日に訪問先の市の教育委員会のセッティングでその研究所に招待されたのだった。
相撲キング
研究所内にある会場にはいると、すでに大勢の生徒がステージ上でスタンバイしていた。ウィーンの音楽家たちに、指導の様子を見てもらおうというわけだ。客席には、子供たちの親が大勢座っていた。やがてこどもたちは合図で、一斉に演奏を始めた。全員で同じ曲(たしか「きらきら星」だった)を弾いた。
演奏が終わると、その研究所の創設者であるS氏が登場した。今度はS氏は生徒たちに指導する様子を、我々に見せた。そこまではよい。音楽教育法として世界的に評価されているその教育を実際に見学できた経験は貴重である。
しかし私が仰天したのは、次の行為だった。
S氏はステージ上でたばこを吸い始めたのだ。あっけにとられた。その様子を察するように、S氏は言い訳を始める。
Smoking is very good for health.
(たばこは健康にいいんですよ)
S氏は四股をふむ真似をしながら言った。
SUMO King!
(相撲、キング!=横綱の意味か?)
場内にいた日本人には馬鹿ウケである。が、ウィーンの音楽家たちは苦笑していた。
S氏はサービス精神で、おどけてみせただけなのだろうが、音楽教育では世界的に高く評価されているこのS氏を私は尊敬すべきか否か正直いって戸惑った。
※喫煙自体を非難するつもりはないが、指導中に、しかもステージ上で、子供たちを前にしてタバコを吸わなくともよかろう、、、というのが私の意見。
協奏曲をカラオケで弾く少女
やがて一人の少女がステージ上で、指揮台に上り、演奏を始めた。
有名なヴァイオリン協奏曲(題名は忘れたが三大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる中の一曲であることは間違いない。とにかく難しい曲)である。伴奏は、テープによるオーケストラ、つまりカラオケである(これが本当のカラオケだな!)。
10歳位の少女が、コンチェルトを弾く。さすがにウィーンの音楽家たちも、その技術にあっけをとられるだろうと、研究所の指導者たちは予想したのだろう。なんて素晴らしい教育だ、と賛美してくれると自信があったはずだ。
ところが、残念なことに、彼らの反応は冷ややかだった。あんな小さな少女がコンチェルトを弾けるということは確かに素晴らしい。しかし、10歳という年齢で、コンチェルトを弾くことがはたして必要なのか?その年齢に相応しい音楽はたくさんあるのではないか、という意見だった。しかも伴奏がカラオケである(カラオケという言葉は彼らは当時知らない)。これが問題だ。ピアノ伴奏ならまだいいという。あの少女が、生身の人間の伴奏に合わせて演奏できるようになるには相当時間がかかるだろう。なぜなら体に染みついたカラオケの伴奏から抜け出すのは至難の業であるから。
あの10歳の子が、馬鹿な大人たちにヴァイオリンという芸をさせられている哀れな少女に見えてきた。ヴァイオリンは、曲芸なのだろうか?これが私の感想であった。そしてそれ以来一切ヴァイオリン独奏曲、協奏曲、ソナタを聞くことはなかった。
馬鹿な話である。たった一日のあの研究所での体験で、すべてをシャットアウトし、ヴァイオリン音楽の魅力から遠ざかった、いや避けてきたのだから。
曲芸としてではなく音楽を聞け!と自問自答
最近、ヴァイオリン曲を好んで聞いている。心落ち着くのだ。そして何よりもその美しいその音色に魅了されている。曲芸というレッテルを貼り、避けてきたヴァイオリン協奏曲にしても、テクニックではなく、音色を聞くことで、少しづつではあるが、拒絶感が解けてきている。嬉しい。
考えて見ろよ、と自分に言い聞かせる。お前の好きなピアノ協奏曲も、ホルン協奏曲だって、どれもある意味では奏者のテクニックを披露する音楽ではないか。曲芸を馬鹿にするのは、協奏曲という音楽を馬鹿にすることに他ならないではないか。
そして、これが大事な点だが、協奏曲はある意味では、曲芸というテクニックを通じて、演奏者の奏でる音楽を聞くものであると。開眼させられた。
私がこんな気持ちになれたのは、メールマガジン読者のIさんからの一言によるおかげだ。
彼は言った。
「それは(曲芸抜きの協奏曲とは)、反則です!」と。
そうだよね、ありがとう!
時間がかかったが、これで私は、心おきなくヴァイオリン協奏曲を聞けるだろう。
あの時の少女は今25歳位のりっぱな大人になっているはずだ。彼女が今もヴァイオリンが好きで、その後もずっと弾き続けているといいな、と思う。そうあってこそ教育に意味がある。
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