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「霧のブリーカー街」 Bleecker Street

 人は人を本当に理解することができるのでしょうか?
 いきなりがらにもなく、シリアスな問いかけですが、「霧のブリーカー街」(Bleecker Street)の詩を読んでいてそんなことを考えました。
 サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」は静寂の音という比喩で人間の心の中に潜む疎外感を歌いました。曲想もそのいいようのない寂しさをイメージさせるものでした。誤算はギターデュエットによるシンプルだけれども印象的オリジナルバージョンではなく、エレクトリックギター、ドラム、 ベースなどで装飾された似非バージョンの方がヒットしたという現象。静寂の音が、全く静寂でないサウンドで全世界へと浸透していったのも、当時の世相(現代でもそれは変わっていない?)を見事に象徴しています。
 
 「サウンド・オブ・サイレンス」の直接的ともいえる問いかけに比べ、「霧のブリーカー街」は、彼らのわずか三千枚しか売れなかったアルバムの3曲目に収録されている地味な歌ですが、根底にあるものは共通しています。
 
 
 Fog's rolin' off the East River bank
 (霧はイースト河の堤のむこからやってくる)
 
 霧につつまれたブリーカー街の様子の描写。まるで映画の一シーンのような描写。普通の街を、美しいハーモニーで歌っています。

 Smiling Faces try to understand
 (微笑みの顔つきは、わかろうとすることに懸命だ)
 I saw a shadow touch a shadows hand
 (影がもうひとつの影の手に触れるのを見た)
 という印象的な2コーラス目の表現は、何を言い表そうとしているか?
 社会生活の上で人は仮面をかぶります。人を理解しようと、または理解してもらおうと、私たちは知らずうちに笑みを「作る」癖を訓練させられます。でもそこに真の理解があるのかといえば、ほとんどない、つまり「無」の状態。たとえ血のつながった家族でさえも。上の二行は、そうした「寂しさ」を歌っているのかもしれません。
 
 4コーラス目にとっても美しい箇所があります。
 
 I heard a church bell softly cheme
 教会のベルが遠くで鳴り響く
 In a melody sustaining
 続くそのメロディの中で、、
 
 歌のメロディと音声としてのこの詩の見事な調和は、言葉では言い尽くせない感動で私たちの心に響きます。
 
 
 「悲しくてやりきれない」というフォーク・クルセーダーズの歌は、青春時代の理由もないむなしさを歌ったとされています。
 
 ひょっとすると、「霧のブリーカー街」もそんな青春の心情を、ブリーカー街の日常描写で表現しようとしているのかもしれません。詩を何度も読むあまり、この歌がうたいたいことを、曲解しすぎたような気もします。
 
 でも結びとして、、。
 
 人間の心は本当はわかりあえない?ひとりなのでは?という寂しい問いかけ。
 
 サイモンはそれを、最高傑作「明日に架ける橋」で、こう答えます。
 
 「(わかりあえないかもしれないけれど、、)
  あなたが悲しみや苦難を超えるための、
  私は橋になろう」
 
 と。  

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